岡谷市の開拓がはじまったのは、古く縄文時代早期にさかのぼる数千年前。 湖岸に近い海戸遺跡は縄文、弥生、古墳の各時代の遺物をもつ大遺跡であり、新屋敷天王垣外遺跡や岡谷遺跡にもみられるように自然に恵まれたわが岡谷市は太古以来原始民族の好適な生活舞台であったことを物語っております。 岡谷の名が文献にみられるのは平安時代の「延喜式」(927撰輯)で勅使御牧岡谷牧がおかれたことが始めで、のち治承四年(西暦1180年)には源頼朝によって諏訪下社に寄進されてそれ以後社領となったのですが、中世武士の社会となると寺社領の分割、武家の争奪のうちにあけくれ、やがて戦国の世となり諏訪氏は滅び武田氏の領国となったのであります。 この歴史のあゆみとともに領民の生活のなかにはぐくまれて来た神話と伝承と詩を語り伝える太鼓が諏訪下社と結びついて御諏訪太鼓となり川中島合戦に武田勢の志気を鼓舞する鳴物として活躍したものであります。この伝承ある御諏訪太鼓は国内はもとより海外にも知れわたり、その豪壮たる太鼓の響きは聞く人の心をひきつけ親しまれて来ました。 昭和44年大阪万国博覧会のあと商業祭として御諏訪太鼓の指導の元、岡谷太鼓存会を結成し地域活性化のために「岡谷太鼓祭り」として始まりました。その後、回を重ね岡谷太鼓は郷土芸能として発展し、定着し太鼓連も30チームを数えるようになりました。また、内外での演奏活動も数多く大好評を得ております。 話題の "300人による日本一の揃い打ち"は天地を衝き人々の心をとらえてやみません。 豪壮無比太鼓の響き、大地の響き、心の響きをお楽しみください。 |
|
|||||